出家と在家
釈尊は、出家修行者用の教えと、在家信者用の教えを、区別して説いた。
在家信者に、出家者の修行を薦めても、たいていは苦しみ混乱するだけで無益だと分かっていたからだ。
出家者への教えと戒律は、「存在の意味」に最短距離で直結させるためのものだ。
「存在の意味」は一般に問題としてさえ認知されていないのだから、稀な例外を除いて在家者には、はなから分からない教えだ。
それどころか、多くの在家者が誤解して、嫌悪や怒りを感じるようなものだ。
一例をあげれば、不浄観などがそれだ。
キリスト教でも、事情は同じなのだ。
ところが、聖書の中には、本来出家者へするべき教えと、在家者への教えが無頓着に混在している。
聖書が聖職者だけのもので、一般信徒の見るものではなかった時代は、それでもたいして混乱は起きなかった。
一例をあげれば、9月6日の日記に引用した
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」
(ヨハネの手紙1 2,15)
現代では、稀な例外を除いて一般信徒には分からない教えだ。
それどころか、多くの一般信徒が誤解して、嫌悪や怒りを感じるようなものだ(あるいは、無理に受け入れようとして、陰鬱な変人になってしまったりする)。
では、この教えは当時は妥当だったが、今では妥当とはいえなくなったのか?
もちろん、そうではない。
「ダンサーインザダーク」秀作
暗いが感動的。
「キューティーハニー」上佳作。軽さが良い。
「SOU」秀作
人生に易々と意味を見出し生きることに感謝したがる平均人への強烈な嘲笑としておもしろく観た。
「SOU2」上佳作。