哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

映画『赤い玉、』苦が苦聖諦に昇華できないとどうなるか



 泥沼の中に居るのに1ミリも前進しない。
その自分の停滞状況に苦しみながら、けっこう楽しんでもいるからだ。

つまり、四聖諦前半に始終している。
苦しみと苦しみの原因の無限サイクルの中に留まっていて、
当然何も解決せず、次第に追い詰められ悪化していく。
そのありさまが描かれているとおもう。




[同日追記(増補改稿)]
 つまり、四聖諦前半に始終しているのだが、
そのことに対する明晰な自覚(サティ、マインドフルネス)がない為に、
苦諦が聖にならず、たんなる苦でしかない。
集諦も聖にならず、たんなる苦の原因でしかない状態だ。
苦しみと苦しみの原因の無限サイクルの中に留まっていて、
当然何も解決せず、次第に追い詰められ悪化していく。
そのありさまが描かれているとおもう。







(相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁64項)HP「ターン・プッタタート」ブッダの言葉による四聖諦・完全版『五蘊は知り尽さなければならないもの』より引用します。
 比丘のみなさん。形に夢中になっている人は、
その人は苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。受に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。想に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。すべての行に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。識に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
その人は当然苦から解脱できない」と言います。