哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

もはや羞恥心も失い露骨に表白される共同妄想

 一休さんが元旦を詠った有名な短歌



門松は冥途の旅の一里塚

めでたくもありめでたくもなし






いまさらですが 『おくりびと



 もうテレビで何度もやったから、近所のゲオなら旧作料金50円でレンタルできる。
 元ネタ本『納棺夫日記』は大昔読んだが、映画とはだいぶ違う印象だったとおもう(具体的内容はすっかり忘れたが)

 国内外で多くの賞をとっただけあって、映画自体はよくまとまっていて良い出来だ。


 しかし、根本的なところでとんでもないインチキがあるとおもう。

「人は死んでも生きている」妄想は、人が死ぬたびに葬儀場で必ず確認しあうみんなの儀式になっている。
この共同妄想は今に始まったことではないが、「おくりびと」が世界的に評価されて気づくのは、その表白においてだんだん臆面がなくなってきているという事実だ。



[190210追記]
 当時、世界的な映画大賞を獲り大ヒットもし、テレビ各局で「おくりびと」特集をやっていた。
映画は必ずしもそれを主張していないかもしれないが、番組でコメントする有識者は、例によってワンパターンの結論「死んでも生きている」に犯罪的安易さで視聴者を誘導し、そうしておいてそれを日本民族が世界に誇るべき大発見・大見識のように言っているのを見て、おれはあきれはてた。

[追記終]





次に、映画『岸辺の旅』…誰も死んでないことになってる。




 失踪中に死んだ夫が妻のもとに帰ってきて「俺死んだんだ」と言い、夫の思い出の場所巡りを二人でする話。

霊魂が不滅であるという考え方は、生ける人間の生命への執着と死者への愛着とのあらわれでありましょう』(川端康成

 この種の物語では、決まって死者が「生きてる君のことが忘れられず、あの世から戻ってきた」と生者に言うのだが、もちろん真相は逆だ。
生者の執着が死者を語らせているにすぎない。

「あとから行くよ。また会おうね」「うん、待ってるよ」…已矣哉


 人がこの愛執から自由になれず

いつまでも生き続けたい自分

を捨てないなら、いじめも戦争もなくなることはない。




  元旦に縁起でもない、しかし一休禅師を見習ったつもりの

門松は冥途の旅の一里塚

的話でした。

 失礼しました。













(過去記事統合増補編集再録)