哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

転法輪は発想の逆回転だ


(ひとつ)。現世をすぐべきようは、念仏の申されんようにすぐべし。

念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいといすてて、これをとどむべし。
いはく、ひじりで申されずば、妻を設けて申すべし。
妻を設けて申されずば、ひじりにて申すべし。
住所にて申されずば、流行(るぎょう)して申すべし。
流行して申されずば、家にゐて申すべし。
自力の衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。
一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
共行(くぎょう)して申されずば、一人籠りゐて申すべし。
衣食住の三は、念仏の助業(じょごふ)なり。…
もし念仏の助業とおもはずして身を貪求(とんぐ)するは、三悪道の業となる。
往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。
萬事(ばんじ)かくのごとし、と。

(黒谷上人語燈録15 禅勝房伝説の詞より)

人生のために念仏があるのではなく、念仏のために人生があるという、発想の驚くべき逆回転がなされている。

これを「ばかげている」と思ったら、永久に真実は分からない。

この逆回転こそ転法輪だ。

釈尊が、一切皆苦から始まる四諦八正道を説いた初転法輪の中に、この逆回転の構造の原型がある(初めてこの世に現れた)、とおれはおもう。

この構造をおれに適応すれば「人生のためのヴィパッサナー実践ではなく、ヴィパッサナー実践のための人生」となる。
この独り決めができないと、修行はそもそも始まらないのだとおもう。







いたづらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。

昨日もいたづらにくれぬ、今日もまたむなしくあけぬ。…

今いくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。…

妻子眷属は家にあれどもともなはず、七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。
ただ身にしたがふものは後悔のなみだなり。…

なんぢ仏法流布の世に生れて、なんぞ修行せずしていたづらにかえりきたるや

(拾遺黒谷語燈録中 登山状より)


(過去記事統合編集再録)

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