念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいといすてて、これをとどむべし。
いはく、ひじりで申されずば、妻を設けて申すべし。
妻を設けて申されずば、ひじりにて申すべし。
住所にて申されずば、
流行して申されずば、家にゐて申すべし。
自力の衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。
一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
衣食住の三は、念仏の
もし念仏の助業とおもはずして身を
往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。
(黒谷上人語燈録15 禅勝房伝説の詞より)
人生のために念仏があるのではなく、念仏のために人生があるという、発想の驚くべき逆回転がなされている。
これを「ばかげている」と思ったら、永久に真実は分からない。
この逆回転こそ転法輪だ。
釈尊が、一切皆苦から始まる四諦八正道を説いた初転法輪の中に、この逆回転の構造の原型がある(初めてこの世に現れた)、とおれはおもう。
この構造をおれに適応すれば「人生のためのヴィパッサナー実践ではなく、ヴィパッサナー実践のための人生」となる。
この独り決めができないと、修行はそもそも始まらないのだとおもう。
いたづらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。…
昨日もいたづらにくれぬ、今日もまたむなしくあけぬ。…
今いくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。…
妻子眷属は家にあれどもともなはず、七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。
ただ身にしたがふものは後悔のなみだなり。…
なんぢ仏法流布の世に生れて、なんぞ修行せずしていたづらにかえりきたるや…
(拾遺黒谷語燈録中 登山状より)
(過去記事統合編集再録)
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