佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その14」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube
〔聞法と感想〕(一昨日の記事の続きです)
「欲望満足ゲーム」に夢中の人は、
仏法のコアな部分を絶対受け付けない。
現代人は、
原子でさえ常住ではない
と認めてるのに、
常の意識は、なお
遥か古代人のレベル
に止まってる。
なぜなら、
常住不滅の魂
=俺は死んでも生きてる
を信じてるんだから。
そのため、いつまでたっても
戦争もいじめもなくならない。
そんな彼等には
「幸福になりたいなら、あなたは良いことをせよ。悪いことをするな」
といった打算レベルの話しか通じない。仏法のコアの支えが全くない、根無し草のお説教なので、右の耳から左の耳に素通りし、その実行が極めて不安定だ。
仏法のコアを体得しない限り、
七仏通戒偈にある「
の積極的実行に不可欠なエネルギーが供給されないからだ。
充電できない車が、放電し切ったらすぐ止まってしまうようなものだ。
善行・清浄行のエネルギー源たる仏法のコアとは、四諦と八正道だ。
より引用させていただきます。
強調処理は私です。
もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四
これこそ道である。
(真理を)見るはたらきを清めるためには、
この他に道は無い。
汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。
汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
汝らは(みずから)つとめよ。
もろもろの如来
(修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。
心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
(以上、ブッダの真理の言葉20章より引用終)
この世のすべては無常であり、
無常は苦であり、
苦は非我である。
ゆえに、
この世のすべては(自分も含めて)我ではない。
大多数の人々は六識を愛してやまない。
つまり苦を溺愛してるのだ。
苦に夢中の人が苦から逃れられるわけない。
※【六識】
突然ですが、ここで(黒谷上人語燈録15 禅勝房伝説の詞)より一文を引用させていただきます。
念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいといすてて、これをとどむべし。
いはく、ひじりで申されずば、妻を設けて申すべし。
妻を設けて申されずば、ひじりにて申すべし。
住所にて申されずば、
流行して申されずば、家にゐて申すべし。
自力の衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。
一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
衣食住の三は、念仏の
もし念仏の助業とおもはずして身を
往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。
(以上引用終)
人生のために念仏があるのではなく、念仏のために人生があるという、発想の驚くべき逆回転がなされている。
これを「ばかげている」と思ったら、永久に真実は分からない。
この逆回転こそ転法輪だ。
釈尊が、一切皆苦から始まる四諦八正道を説いた初転法輪の中に、この逆回転の構造の原型がある(初めてこの世に現れた)、とおれはおもう。
この構造をおれに適応すれば「人生のためのヴィパッサナー実践ではなく、ヴィパッサナー実践のための人生」となる。
この独り決めができないと、修行はそもそも始まらないのだとおもう。
いたづらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。…
昨日もいたづらにくれぬ、今日もまたむなしくあけぬ。…
今いくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。…
妻子眷属は家にあれどもともなはず、七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。
ただ身にしたがふものは後悔のなみだなり。…
なんぢ仏法流布の世に生れて、なんぞ修行せずしていたづらにかえりきたるや…
(拾遺黒谷語燈録中 登山状より)
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。