哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

知られていない不浄随観の真価

ブッダは「身体は不浄である」と言明している。
ルネサンス的思考に馴らされた大多数の人々は、これがわからない。


スマナサーラ長老の法話

 身体は穢いものです。それは事実です。その証拠にあなたは毎日のように入浴をするでしょう。
一週間ほどからだも顔も洗わず、歯も磨かず、下着もそのままにしていたらどうなるでしょう。結果は想像できますね。人間はみな美味(おい)しいものを食べます。しかし、美味しいと思ったその食品も口に入った途端汚いものに変化していきます。因(ちな)みに、自分の大好物な食べものをひと口噛んだあともう一度手のひらに戻しその大好物だった食品をよく観察してみてください。それからその一度噛んだ食品をもう一度口のなかに戻してみましょう。ちょっと常識ではできませんね。実際それをやらずとも想像するだけでも試してみる自信のある人などいないはずです。

 咳、痰、膿、尿、便、汗、鼻くそ、耳垢をはじめ、胃や腸など内臓など自分のものでないかぎり他人を不快にするものばかり人間一人一人が所有しているのです。さらに言えば、口から入ったものは内臓を下に行けば行くほど不浄なものに変わってしまい最後は大便として排出されてしまいます。人間の肉体はまさに不浄の塊、不浄の工場といった観があります。
 ところで、不浄随観(ふじょうずいかん)は仏教の冥想法のひとつです。からだが清浄なものとおもっている妄想概念を越えて、からだが不浄であるという事実をふかく観じることができると、まず快楽を求めるからだに対する煩悩が消滅しはじめます。高慢で自我中心的の間違いだらけの生き方に気づき、心が清澄になり、日頃の悩み、苦しみ、不安といった汚れた心がなくなっていきます。

 こうなると、もう安心です。心ははじめて真の安らぎを感じられるようになり、さらには、完全で清浄なる、人間本来の真の本体が輝きはじめ、すばらしい精神世界を目指して励む心にも、縦横な確信が湧出して身についてきます。もう、どんな悪魔にも負けることかありません。
(パティパダー巻頭法話より)
[引用終]


不浄随観に「本来汚いも綺麗もない」と反論する人が多い。
こういう人達は、坐禅を見ても、ろくにやらずに「座ろうと立とうと関係ない」と言う。
悟った人の口真似をしていてはダメだと気づかないのか。
重要なポイントは、仏道は自分で実行するためだけにあり、不浄随観がその入口ということだ。
[関連記事]→勝利の経
[参考文献]→施本PDFアルボムッレ・ スマナサーラ長老提唱「勝利の経」