これからブッダのことばを引用します。いわゆる不浄観・死随念です。死体が目の前になくても、自分の身体の行末を実感すれば十分です。また、べつに比丘の修行に限ったものではない。
ブッダが弟子たちに説きます。
HP『ターン・プッタタート』ブッダの言葉による四聖諦・完全版「九種類の墓(つまり体)」より引用
HP『ターン・プッタタート』ブッダの言葉による四聖諦・完全版「九種類の墓(つまり体)」より引用
(1) 比丘が、死体を捨てる墓地に捨ててある、死んで一日経ったのでも、死んで二日経ったのでも、死んで三日経ったのでも、腹が膨れ、醜い緑色をして、膿が気味悪く流れている死骸を見るように、その比丘は「この体もこのような状態があり、当たり前にこのようなことがある。このようなことから逃れられない」と、このように引き比べて見ます。このように普段から比丘が体を熟慮して見ているのは、内部の体もあり、外部の体もあり、内部と外部の体であることもあります。 そして平素からダンマを熟慮して見る人が、(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマ、(この)体の中で(体が)衰える原因であるダンマ、体の中に(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る時の、彼の「体がある」というサティ(想起)は、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は渇望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。 比丘のみなさん。普段から体の中の体を熟慮して見える人と言われる比丘は、このようです。[引用終]
幻想でなく真実幸福になるには、無我の世界に触れる必要がある。そのための唯一の入口が苦聖諦であり死随念だ。この切り札によって長い夢うつつから覚め「我」が矛盾だと明晰判明に気づけば、無我に近づけるからだ。しかし一切皆苦や死随念をごまかしなく説いたら、大多数の人は耳をふさぐだろう(このブログ記事だって、ここまで読み進めたあなたは超少数派だ)。動物本能のままグループ呆けし、事実を毛嫌いし続ければ自業自得果の不幸の中で生死するほかない。まさにこれが無明と呼ばれる状態だ。「盲亀浮木の譬え」にある人間に生まれて、動物本能の木偶のままで生死すれば一生悪業を積み続けたことになる。それで幸福になりたいといっても無理な話だ。
[引用続き]
(2) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は、死体捨て場である墓地に捨てられた死骸を、カラスの群れがつつき、ハゲコウの群れがつつき、ハゲタカの群れがつつき、犬の群れが喰い、狐の群れが喰い、ウジ虫の群れが喰っているのを見るように、「この体もこのような状態があり、このようなのは当たり前だ。このようなのを避けることはできない」と、この体と引き比べて見ます。… (3) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が、死体捨て場である墓地に捨ててある、肉と血があり、まだ腱で繋がっている死骸を見ると、彼は「この体も、当たり前にこのようになり、このような状態がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。… (4) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は死体捨て場である墓地に捨ててある、肉はないけれど血で汚れ、まだ腱で繋がっている死骸を見て、彼は「この体も、当たり前にこのようになり、このような状況がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。… (5) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、血も肉もないけれど、まだ繋いでいる腱がある死骸を見ると、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。… (6) 比丘のみなさん。まだあります。死体捨て場である墓地に捨ててある死骸を、繋いでいる腱がなく、手の骨は一方に、足の骨はもう一方に、脚の骨は一方に、腕の骨は一方に、腰の骨は一方に、背骨は一方に、肋骨は一方に、胸骨は一方に、肩甲骨は一方に、喉の骨は一方に、顎の骨は一方に、歯骨は一方に、頭蓋骨は一方に、バラバラに散らばっている骨を見ると、彼はこの体を「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。… (7) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、ほら貝のように白い沢山の骨の欠片を見ると、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。… (8) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、一年以上散らばって山になっているたくさんの骨を見るように、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。… (9) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、細かい粉になった骨たくさんの骨を見ると、彼は、「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。比丘が普通に体を熟慮して見ているのは、内部の体もあり、外部の体もあり、内部と外部の体であることもあります。 そして平素からダンマを熟慮して見る人が、(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマ、(この)体の中で(体が)衰える原因であるダンマ、体の中に(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る時の、彼の「体がある」というサティ(想起)は、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は渇望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。(10巻325頁274項)[引用終]
この不浄観・死随念にたいして、大多数の人々は昔も今もおよそ聴く耳を持たない。「死ぬことくらい知ってるわ」と言って。
そういうタチ悪い嘘を自分につくから、自他いずれも幸福にできず醜く生死する破目にずっとなってきている。
幸福を求める人間独り独りが明晰判明に知るべき人生の最重要根元事項だと、おれはおもいます。
そういうタチ悪い嘘を自分につくから、自他いずれも幸福にできず醜く生死する破目にずっとなってきている。
幸福を求める人間独り独りが明晰判明に知るべき人生の最重要根元事項だと、おれはおもいます。