哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

神の大我を僭称して自分の我を通す者

仏教にあってキリスト教にないものとキリスト教にあって仏教にないものの中で、次のように書いた。
最善の無我には及び難いから、神の前に小我を殺し神の大我を生きるという「次善策」を採る。この覚束無い便法に兇悪な副作用のあることは後の歴史に証明されている。絶妙手とおもわれたが、そのコストは大きすぎた。いくら神の大我だと強弁したって我に違いはないからだ。人類はキリスト教イスラム教のコストを今もはらい続けている。

いくら神の大我だと強弁したって我に違いはないからだというのは「神の大我を僭称して自分の我を通す」という意味だが、より具体的な補足をしておく。

坂口安吾『続堕落論』に古来日本の軍人が天皇をどう利用してきたかについて書いてある。
自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。
 それは遠い歴史の藤原氏武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。満洲の一角で事変の火の手があがったという。華北の一角で火の手が切られたという。甚(はなはだ)しい哉(かな)、総理大臣までその実相を告げ知らされていない。何たる軍部の専断横行であるか。しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜(ぼうとく)しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。

この洞察は普遍的で、なにも日本の軍人と天皇に限ったものではない。
天皇を「一神教の創造主」に読み替え、軍人を「神の大我を僭称して自分の我を通す者」に読み替えれば「神をないがしろにし、根柢的に神を冒涜しながら、盲目的に神を崇拝しているのである。」となり、まったく同じ構造で世界中に「ナンセンス! ああナンセンス極まれり。」な兇悪が行われてきたことに気づく。