哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

物語が「現実」に(夢生夢死の人生)

ブッダの教えを知らない人達は、物語の世界で生き死にしている。物語を現実そのものだと無意識レベルの頑強さで思い込んでいる。

おれは以前「悪い夢にうなされるよりは、良い夢で気持ちよくなるほうがまだましだといえる。しかし仏教は両方の夢から一時に目覚める教えだ」と書いた。この夢とは、上述の物語のことだ。

人間は動揺が大好きである。映画の広告の看板を見ても、動揺した顔ばかりがかいてある。
(澤木興道老師)

大多数の人々は動揺が大好きなので、動揺の供給源である物語から離れたいと望んでいない。
自分が主役の映画に没頭して見入っている人のように、スクリーンの自分とそれを見ている自分を区別したがらない。
夢の中で永遠に泣いたり笑ったりしていたいのだ。

その欲の力で、自分は死んでも生きているという無法千万なことを勿論至極と盲信するくらいは朝飯前だったのだ。彼らは物心がつく前にそれを鵜呑みにしているので、自分が不死を信じている事実に気づくことさえほとんどできない。

あの世の天国も地獄も、さらに言えば夢から覚める悟りも、すべてが夢物語の中で完結してしまっている。彼らの現実はそういうシロモノだ。

大多数の人々は共同幻想という夢の中でグループ惚けしていることをもって自己の幸福と感じている。
この根本原因がある限り、未来永劫戦争はなくならず、日々いじめもくりかえされる悲惨な世界であり続ける他ないのは自業自得の結果だとおもう。