澤木老師は「グループ呆け」ということばをよくつかった。
「グループ呆け」というのがある。そして呆けたのを経験とこころえておる。
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いま時分の奴のやることは、みな集団をつくって、アタマ数でゆこうとする。ところがどこの集団もグループ呆けばかり、金がほしいというのもグループ呆けなら、エラクなりたいというのもグループ呆け。いわんや党派をつくるなど、グループ呆けの代表である。
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グループができると、その中に麻痺状態が発生して、良い悪いがわからなくなってしまう。
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今の世の中の人間は、オカシナことに自分の人生を、しみじみと考えてみたことがない。われわれ過去永劫の昔から、何ぞ煮えきらぬものを持ってきており、「あの人もそうじゃ、この人もそうじゃ」と、それで平気でいるだけである。これがグループ呆けというもんじゃ。人並みでありさえすればいいと思うとる。
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グループ呆けの中でのみしか見えぬのが凡夫の性である。
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ひとり透明になって呆けぬことが必要だ。
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われわれのたった今の生活態度がインチキならば、今まで飯を食べさした人も、今まで教えてくれた人も、今までものをくれた人もみなインチキをさせるためにしてくれたことになる。
もし今日の生活態度が立派ならば、その立派なことをさせるために私を生み、私を育て、私を教え、私にものをくれたことになる。
このたった今の生活態度が全過去を生かしていくのじゃ。
(澤木興道老師)
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