哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

自己欺瞞戦略の高い代償

 一切皆苦に繋がる話を、大多数の人達はうすうす知っているが、はっきり気づきたくないし聞きたくないんだとおもいます。…
ある時は知らないと言い、ほんとに知らない気になります(生きることは苦だ等)。
また別の時は知ってると言い、ほんとに知ってる気になります(人は死ぬものだ等)。
どっちも自分がはっきり事実に気づかないための防御反応です。
知らないんだ、分かってないんだとおもって単純に事実を教え伝えようとしても、それは徒労に終わります。相手はその事実そのものをまさに恐れてるわけですから。(120416)

 見返りを当てにしてないふりをして無償の善行のように見せたがると、これは無知による偽善になるとおもいます。
無償の行為(ただする)は大唯作心が働く聖者にしかできないからです。
自分の平凡な善行を、大唯作心の行為のようにおもってしまうのは無明が作用しているからで、正しい結果をはっきり意識すれば智相応になり、より清浄な善行にレベルアップできるとおもいます。…
「人のため」じゃなく「自心を清浄にするため」なら、正しく因果を自覚してることなり、智慧の働いたレベルの高い善行為になる。もちろん偽善じゃない。
因果を自覚しないでする善行為は一段劣ります。これは世間と真逆の考えですが、大多数の人々は因果の自覚なしの善行為と大唯作心の善行為を迂闊に混同してるだけですから、こっちが正しいとおもいます。
無償の善行為であるべきだというのは、事実上無いものねだりで、かえって人に可能な善行を妨げて偽善に導くとおもいます。
ちなみに、偉大なカントがかの有名な「すべし道徳論」においてこの過ちを犯してるとおもいます。ショーペンハウアーはこれを「カントが世間にひろめているのは道徳的なペダンテリー(衒学趣味)である」と非難してます。(120326)

 人間以外の生きものは人間に役立つために用意されていると強弁して、大多数の人達は食べてるので、バランスはとれてます。インチキですが。
感謝して残さず食べましょうといったバランスのとり方にも同意できません。これもインチキです。
居心地悪いです。…
生きものは人間が食べるように神が用意したんだとか、「食べてごめんね」と言えばいいんだとかの屁理屈…(120319)

釈尊の教えを)聞いても聞けない状態に自分でしてます。
「邪な心は、他人がするどんな酷いことより、もっと酷いことを自分自身にする」(法句経)というのは本当です。
大多数の人々は、自分たちの妄想を仏教だとおもってますね。そして、人々に迎合する宗教ビジネスは常に繁盛し、互いに補完して、日々自分たちの共同妄想を増強している。自分で自分の首を絞めていく。(120304)

(死ぬ時)「見てみたい」とか「言えません」とか「嫌でも」とか思う自分が雲散霧消してますよ。(自分という欺瞞は)もともと生きてる間に作った錯覚ですから消えて当然です。でもみんな、この事実を蛇蝎のごとく嫌ってるみたいです。(120229)

「全てのものが全ての瞬間に変わり続けている」と認めるしかないんですが、何時でも口先で「認めてるよ」って言って終わりにしてるんですよ。気に入らない状況の時だけ「明日は良くなる」と信じようとする。しかも整合性はなくていいんだとさえ思う。心の底では、永遠に変わらない「魂の自分」を後生大事に抱きしめてる。もうむちゃくちゃな精神状態。(120223)

以上、最近のコメ返です。なにが言いたいかというと…
人間は、多かれ少なかれ常に自分で自分を騙している。のんきに生きるためには、本気モードで絶望を感じないようにする必要がある。そのために、人は本能的かつ無意識的かつ自動的に自己欺瞞という戦略をとってしまう。
しかし、この戦略の代償がものすごく深刻で広範囲におよんでペイしていないことに、まったくといっていいほど気づいていない。
魚が目の前の鉤餌に食いついて破滅するように、最初一瞬だけ見せ掛けの成功が得られるが、その後は解決不能の混乱と悲惨のみとなる。

自己欺瞞は、人間にとっては、理性が獣性の下僕に成り果てた状態で、良い結果はひとかけらも得られない。

人間て、こういうとこがあきれるほどマヌケだ。







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