哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

下根は万事を捨離して往生す

上根は妻子を帯し、家にありながら著せずして往生す。…下根は万事を捨離して往生す。
(一遍 播州法話集)
を初めて読んだときはビックリ!した。
後で気づいたが、上根下根の価値が2回ねじれていたのだ。

つまり、一遍以前に伝統的な浄土教学が、上根下根の概念に対する最初の「価値の逆転」を試みている。在家修行者は出家より勝れていると主張したがっている。浄土三部経を素直に読めば、そんなおかしな判断はできないはずなのに。いまでも非常に多くの人が、公然と肉食妻帯した親鸞こそ最も勝れた仏教者(上根)だとおもっている。

一遍は自分の実体験・実感から、意味が逆転した言葉はそのままにして、もう1回ひっくり返し「自分は下根だから万事捨離する(出家する)」と宣言した。それで上記の妙にねじれた表現になったのだとおもう。


[140922追記]
上根下根の談義はムダ話だ。
ブッダの本来の教えは、上根だろうと下根だろうと関係なく、万事を捨離(貪・瞋・癡を捨てきる)しなければ救われないからだ。
できる・できない談義もムダ話だ。仏教の門は、できようとできまいと今やるしかないと心定まった者にしか開かれないからだ。



生ぜしもひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり。
(一遍 門人傳説)


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