起てよ、座れ。
眠って汝らになんの益があろう。
矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもに、なんの眠りがあろうか。
起てよ、座れ。
平安を得るために、ひたすらに学べ。
汝らが怠惰でありその力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。
神々や人間は、執著にとらわれ、ものを欲しがっている。
この執著を超えよ。
わずかの光陰を空しく過ごすことなかれ。
光陰を空しく過ごした人は地獄に堕ち悲しむからである。
塵垢は怠りに従って生じる。
つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。
(ブッダのことばスッタニパータ331~334中村 元訳)
しかしまず、自分に矢が突きささっているとはっきり気づかないことには、どんな話をしてもすべて的外れになる。
「毒矢の喩え」の哲学青年マールンクヤは、自分にささった矢を抜くなと主張している者ではない。
マールンクヤは、そもそも自分に矢が突きささっているとは思っていなかったのだ。
「毒矢の喩え」は、絶妙の対機説法に導かれて、ついにマールンクヤが自分にささっている矢に気づくという話なのだ。
「人は死んでも、自分は死なない」という昏深の迷妄から目覚めることができた者の話なのだ。
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