哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

良き友を持つことが、仏道の全部です。

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その34」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube

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人格向上に資する友善知識

を持つことが、悟りへの修行の全部である。



あるとき、十大弟子のひとりの阿難(アーナンダ、仏法第3祖)がブッダ


修行において善き友をもつことは、仏道を半分成就したに等しいと思いますが、いかがでしょうか
 

と、かなり大胆な質問をした。

 

 

 

しかし、ブッダの答えは、さらに大胆で驚くべきものだった。

アーナンダよ、その考えは正しくない。
善き友をもつことは、

仏道の半分ではない。

仏道の全部なのである

と答えられたのだ。

人生において、「良き友をもつこと」は、この上ない重大事なのである。


誰にとっても世界最高の友はブッダだ。

ブッダ自身が

「私を良き友とすることによって、人は生・老・病・死の苦しみから解脱する」

と言ってる。

ブッダ『雑阿含経』より引用させて頂きます)
アーナンダよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱し、病まねばならぬ身にして病より解脱し、死なねばならぬ人間にして死より解脱することを得ているのである。このことによっても、アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである



ブッダの「感興のことば」ウダーナヴァルガ25・11より引用させて頂きます)
どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うということは、そのようなことなのである

 

 

ブッダ

 

わたしの死後は、

わたしの説いた法が師となる

 

と遺言してる。

ブッダの時代、教えの文字化は行われていないので、直接ブッダから教えを受けて面受嗣法する方法が主だったが、今は信頼できるパーリ仏典のわたしの説いた法を師(ブッダ)とすることができる。翻訳解説書も出版されており、仏法を学ぶ専門機関もある。ネットで正師を見出して仏法を学び修行することができ、そうすることで今でもブッダに会うことができる。

法を見る者は、わたしを見るブッダ)からだ。

 

したがって「付き合うべき善友とは?」

の最適解は、今でもブッダです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

[和訳] Careless Whisper - George Michael - YouTube

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(過去記事再録)