哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

クラウドファンディング記念再配信 ブッダ究極の教え 幻覚から目覚める

幻覚から目覚めるーースマナサーラ長老『スッタニパータ「犀の経典」を読む』より|クラウドファンディング記念再配信 - YouTube

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動画概要欄から引用させていただきます。

…”犀の角のようにただ独り歩め(eko care khaggavisāṇakappo)”というフレーズがよく知られている最古層のパーリ仏教聖典を読み解く連続講義の第一回です。クラファン企画が進む『スッタニパータ「犀の経典」を読む』のもとになった講義をいま一度ご覧ください。…


(和訳:中村元ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫

孤独は怒りではない
Sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṃ, aviheṭhayaṃ aññatarampi tesaṃ;
Na puttamiccheyya kuto sahāyaṃ, eko care khaggavisāṇakappo.(35)
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわん)や朋友(※伴侶)をや。犀の角のようにただ独り歩め。

愛着はタダではない
Saṃsaggajātassa bhavanti snehā, snehanvayaṃ dukkhamidaṃ pahoti;
Ādīnavaṃ snehajaṃ pekkhamāno, eko care khaggavisāṇakappo.(36)
交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

友人の問題
Mitte suhajje anukampamāno, hāpeti atthaṃ paṭibaddhacitto;
Etaṃ bhayaṃ santhave pekkhamāno, eko care khaggavisāṇakappo. (37)
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

(以上)

 

 

 

〔メモと感想〕

スッタニパータ「犀の経典」は、

出家修行者限定のマニュアルだ。

世間の人が、自分勝手に真似すると、命にかかわる危険が生じかねない。

 

説法を聞いたからって命までとられまいと思うのは大間違いだ。


釈尊は蛇喩経で警告している。

蛇の尻尾を掴んだら噛まれて死ぬか、死ぬほどの苦痛に長く苛まれることになる。蛇を正しく掴まなかったからだ、

と。

 

(蛇喩経 片山一良訳)より

誤って把握されたそれらの法は、かれらに、長く不利となり、苦となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法が誤って把握されているからです。 …

よく把握されたそれらの法は、かれらに、長く利益となり、楽となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法がよく把握されているからです。

(引用終)

 

 

 

いつ死ぬかもしれん我ら人間には、

食欲性欲を楽しむ以上の幸福はない。

 

などと言う奴は愚者だと、

実は、大多数の人々だって分かってるのだ。

 

理由は、

最大の苦しみの中で得る微々たる楽しみ

を評価しがたいです。スマナサーラ長老)

 

しかし、

大多数の人々は、

その評価しがたい生き方

しかしない、できない。

 

理由は、

ほかの生き方を一切知らない

からだ。

 

 

 

 

 

 

 

この経典は

 

emotional detachment-distancing

 

を推薦しています。スマナサーラ長老)

 

 

世間の人々というのは、コロナ禍での

 

social distancing

相手と物理的に離れていること

 

さえ暗く感じ、嫌でしょーがないのだ。

 

ましていわんや、

 

emotional distancing

感情にとらわれず離れていること

 

など究極に暗いと感じ、

想像さえしたくないだろう。

つまり、

苦しみながら、その苦しみに夢中なのだ。

苦に夢中なら、当然苦から解脱できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

ブッダの明晰判明で真に革命的な教え。

Suttanipâta 50 根本仏教講義23刺激論6「囚われずに歩む」より引用させていただきます)

 

外に見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものは、
美しく、おいしく、喜ばしいものである。
これらはあらゆる形をとって(様々に変化し)心を混乱させる。
欲望の対象(色声香味触法)には恐ろしい災いがあることを見て、あらゆるものから離れるべきである。
(以上)

 

 

 

だれもかも

 

色声香味触法は、美しく、おいしく、喜ばしい

 

とのみ思うだけで

 

色声香味触法には、恐ろしい災いがある

 

という端的な事実に気づく人が、古今東西怖いほど極度に少ない。

(スマナサーラ長老のSuttanipâta 50解説は「犀の角」を読む③1:38:35 を視聴してください)

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孤独行の結論(人間関係の本質を説く)
Bhajanti sevanti ca kāraṇatthā, nikkāraṇā dullabhā ajja mittā;
Attaṭṭhapaññā asucī manussā, eko care khaggavisāṇakappo.(75)
今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

(以上)

 

 

 

犀の角の経《Suttanipata-Khaggavisaana》は

 

我々、パーリ語で仏教を学ぶ人々は最後の最後に学んでみようかな~と挑戦する一番、難しいものです。怖くて触りたくもない経典です。

 

私たちの頭で理解できる範囲の経典ではありません。

 

というスマナサーラ長老の警告を肝に銘じたい。

 

ちょっとした訳の思い違いより、こっちの思い違いのほうがはるかに深刻だ。

 

最高の目的とはなにを指すか、あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなくとは実際のところ、なにを指示しているか。


最初読んだ時、なんとなく気に入り「これは怖い」などと感じなかった。

意味内容を誤って把握していたのだ。

 

 

 

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

(過去記事増補編集再録)