哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

方法序説

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方法的懐疑について。

優れた教育者は歴史と経験に学び、「信」が、人の欲望の仮面に過ぎない場合のいかに多いかをよく承知している。

そして、偽物の「信」が甚だしく自他を傷つけることを知って、徹底した懐疑こそ教育の基礎だと認めるようになった。

すぐに信じる「本を背負ったロバ」を歓迎するのは、扇動家や商人や政治屋たち…人間を道具として蕩尽する連中だ。

本当に自律的価値観念を持つためには、デカルト方法序説で模範的にやってみせたように、すべてを積極的に徹底して疑ってみなければならない。

それは実際にやってみた者でないと分からない、不安で辛い体験だ。
この事実は意外に知られていないが、気の弱い人には、とても勧められないとおれは思う。

それを怯まず最後までやり通した者が得る一つの不思議な事実が、あの有名なテーゼ「我思う。ゆえに我あり」の内実だ。
方法序説という薄い本をすらすら読んで、
「ああ、そういうことか。分かった」と言えるようなものではない。

デカルトは、あらゆる不確かなものを捨てたすえに、人間には「我思う」というような我しかないのだということを発見した。


だから、ずっと後になってビアスが、これは「我思うと我思う。ゆえに我ありと我思う」のいいまちがいじゃないかと、皮肉たっぷりのつもりで反駁したのは、実は全然皮肉にも反駁にもなっていなかった。


つまり、ここで問題になっているのは、正にそのような直接とらえようとすれば合わせ鏡の迷宮(メタ認識の迷宮)にすべてのものを引っぱりこむ意識それ自体だ。
意識する自分を意識する。
そのような「思う」だけがある。

我思うと思うと思うと思うと思うと…これは恐ろしい孤独だ。

この真の孤独の只中において、デカルトは確かに一種の悟りを得ている。

デカルトの我とは、「母が殺されていたら存在しなかったわたしの意識」(パンセ469)などではない。

デカルトに現われ、デカルトが我と呼んだものの最初の形態は、むしろ母が殺されていても父が殺されていても存在している我…あの「父母未生以前自己」に近かった。
つまり、デカルトの発見した「我」と二元論の間に必然的つながりはないとおれは思う。


それで、ここを出発点にデカルトは仏教的な世界に進むこともできた。

しかし、キリスト教の影響力がようやくかげりを見せはじめたとはいえ、なお人間と人間が、神という装置を通して繋っていた当時の西洋的伝統のうえに、ある意味で安心して立っていることのできた幸福なデカルトは、後に現われるショーペンハウアーニーチェのような伝統破壊者になる必要はまだなかった。


ちなみに、真理発見法には、デカルトの「方法的懐疑」以外に、

「方法的信」

とでもいうべき道もあるはずだ。

「方法的懐疑」も危険だが、さらにその100倍も危険なのが「方法的信」だ。

冒頭述べた「人の欲望の仮面に過ぎない偽物の信」とは、まるでレベルの違う話だ。

おれにはとても無理だが、これをやりこなせる人間は、そういるものではない。

ヒンズーの聖者ラーマクリシュナが、キリスト教イスラム神秘主義などを深く理解し得たのは、この「方法的信」の実践による。





※ルネ・デカルト
(ウィキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88参照

※ラーマクリシュナ
(ウィキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A参照