哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

邦画『彌勒 MIROKU』

邦画『彌勒 MIROKU』


弥勒MIROKU」を観るのが目的で他に適当に選んだどうでもいい4本を一緒にレンタルしてきた。その4本全部観終わってから「弥勒MIROKU」を最後に観た。借りてきてから数日経っている。
 誰もがおもうことだが、タルホ作品の映像化は無理っぽい。難解で辛気臭い内容を予感して気乗りせず、それでも一種の義務感に近い気持ちで観た。

 映画は2部構成になっている。

 (1部)
 タルホは十代で『一千一秒物語』を書き、以後の自分の全作品はこの注釈に過ぎないと宣言した。その『一千一秒物語

この記事を書いていたら偶然にも、テレビで子供が
「お月様を食べたい」
「なんで?」
「おせんべいみたいだから」
と言っている。

一千一秒物語』はそういうことを、おもいきりいっぱいやっちゃう話だ。

昨夜 メトロポリタンの前で電車から跳び下りたはずみに 自分を落としてしまった」とか書いてある。しかも自分はお月様だったりもする。



 (2部)あれから十数年後…
 精根尽き果てかけたタルホが銭湯に入ったものの、体を洗う力もなく、ただ手拭いを静かに身体に当てている。そのタルホの脳裏に突然脈絡なく「saint(修行者,聖者)」という言葉が浮かぶ場面と名言。
ショーペンハウアー哲学との浅からぬ関係。
そういえばショーペンハウアーも「意志と表象としての世界」の偉大な思想を二十代で自分のものにし、以後の自分の全作品はこの注釈に過ぎないと云ってたな。

その他色々。

愛読した原作の数々の名言を聴いて、数十年ぶりに『弥勒』も拾い読みし、おもいを新たにした。

自殺者は意欲を断ちかねて現象のみを殺すもの、生きようとする意志を置いて、現実の生存のみを破棄するものだ」(『弥勒』)