哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人生の幸不幸に意味なし←理解されない話

 ブッダ在世の時代に若くして預流果に達していたヴィサーカー夫人が、ある時プッバーラーマ僧院で真剣に修行している女性信者たちに「なぜ仏教に興味があるのですか」「なぜ修行しようと思ったのですか」などと訊ねたのだそうです。

女性たちのなかでまず、未婚の娘たちの答えはほとんど同じで、「早くお嫁に行きたい」「お金持ちで、かっこいい旦那さんに巡り会いたい」「修行さえすればその希望はかなうでしょう」と答えました。若奥さんたちの返事もまた決まっていました。「ずーっときれいでいて、旦那さんに愛され続けたい」「子宝に恵まれたい」「最初には男の子が産まれるように」。中年層になると「子供が無事に育つように」「家庭が平和であるように」「家族がみんな健康であるように」「家の収入が増えて安心できるように」、また旦那が遊び人であるならば「旦那が大人しくなって、家に戻るように」…そのようにいろいろな目標をヴィサーカー夫人に向かって言い出したのです。年上の女性たちの希望はまた少し違っていました。「健康で長生きできますように」「死んでから天国に生まれ変わって、旦那のところに行けますように」「今度生まれ変わる場合は絶世の美女になって、それに見合う男性が見つかりますように」などなどでした。
スマナサーラ長老 パティパダー巻頭法話No.56より)

21世紀の今訊いても、世界中女性の答えは、これと1ミリも変わってないとおもう。

ちなみに、それを聞いてのブッダの説法がこれ。

「20才の娘から80才の老婆まで、さまざまな年齢層の人々の目的を並べて見てみると、目的というのは次々と変わるものだということがわかります。もし20才のときの目的がかなわなくて悲しくなったとしても、30才になったら目的は変わっているのですから、今になってみれば20才のときの目的はかなわなくても構わないことになるでしょう。80才の老婆が、一生独身でいたにしても、今さら若い男と結婚したいという目的は何の意味もないでしょう。よく考えると次々と変わるあなた方の目的は、かなってもかなわなくても、どうでもいいものになってしまいます。そこで、どうせすぐ変わってしまう目的に重点を置くのはやめて、少々理性を働かせて考えてみて欲しいのです。我々は瞬間たりとも止まることなく、歳を取って、老いて行くでしょう。若い瞬間だけは、楽しく思うかもしれませんが、ノンストップで歳を取るという確固たる事実を実感すると、自分たちの思考が浅くて虚しいということに気付くのです。

 次から次へと変わる目的を達成しようとする努力も、我々が思うほど意味を持っていません。
目的はその時空関係の中でのみ、意味を持ちます。時間を変えれば、場を変えれば、目的も無意味になります。
時間空間関係は常に変わっていくので、目的というものはかなってもかなわなくても人生にはさほど影響はないのです。が、失望すると人は大きな苦しみを感じます。なんとでもして、希望をかなえようとします。しかし、努力が実って目的がかなったとしても、時空関係を変えれば無意味になってしまいます。
人間は目的だけにひかれて、なみなみならぬ努力をします。ですが、かなう目的はとても少ないのです。かなわなかった目的について、心がいつまでも引っかかって、えんえんと悩んだり苦しんだりします。牛飼いが、否応なしに牛を鞭でたたき、牛を餌場まで追っていくように、我々の人生も、老と死という2つの現象に追われて終わりになります。
 人は、瞬間たりとも停まることなく、自分とともにすべての現象は変化し変わっていくのだと理解して、自分に、目的に、またものに、しがみつく執着心を捨ててしまえば、心の安らぎを体験できます」
(同)(引用文中の太字強調はわたしです)


この話のシメは「それを聞いた彼女たちにも、智慧の目が開きました」ってなってる。
ブッダだからそうなったけど、通常は猫に小判状況だよ。家に帰るころにケロッと忘れる。

女はほんとに変わらん。ものすごい。

まあ、その点男もたいてい似たようなもんだけど…あるいはブッダと男同志で中途半端にわかる分、女よりタチ悪いかも…