哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

歴歴たる事実さえ分からなくさせる無明力

ブッダのことば(Dhammapada113)
物事が興りまた消え失せる法則を見ないで百年生きるよりも、
 物事が興りまた消え失せる法則を見て一日生きることの方がすぐれている。

A・スマナサーラ長老「生きることは爆弾遊びか」 ~無常を知るものは人生を知る ~より
死に襲われているものには、両親も親戚も子供も財産も、何もしてあげることはできません。そういうものがいくらあっても、人は病気になって老いてむなしく死んでしまいます。仏教の立場から言えば、一般の世界では誰もが大変ありがたがる、自慢に思う生き方、つまり、財産を殖やそう、知識を得よう、結婚して家族を作ろう、権力を獲得しよう、有名になろう、というような生き方は結局は何の意味も持たないのです。このような生き方で、100年生きていても、まったく同じことです。無知な生き方であるならば、50歳まで生きていた、80歳まで生きていた、100歳も超えた、と威張っても何のシャレにもならないのです。

 全てが無常で、消えていく、我が身も無常で消えていく、自分の身体さえも自分のものにならない、それを理解して、何ものにも頼らない心を作ることが人生の成功なのです。命はたとえ1日であろうとも、ものの生滅変化を理解し、心の執着を消した人こそが、人生の成功者です。
[引用終]


大多数の人々は、生まれてから死ぬ直前まで、感情も欲求も思考も丸ごと全部
「自分が何を欲しているか知らずただひたすらに生き続けようとする盲目の意志」
の奴隷なので、自分が死ぬという歴歴たる事実さえ分からない。
だから無常も分かるわけがない。分かった気でいるから死ぬまで分からない。ものごころつく頃には自分の理性さえほぼほぼ欲の下僕になりさがっている。
このシュールな状態が「無明」です。
全てが無常で、消えていく、我が身も無常で消えていく、自分の身体さえも自分のものにならない
と聖なる真実を聞いて少しも喜べず、それどころか逆に嫌な気持ち、暗い反抗的気分、耳目をふさいで無視するのは、この「無明」のしわざです。

だから無明は、言葉しか知らない学者達がなにを言おうと、単なる不知ではないのです。
単純に知らないのではなく、「ひたすら生き続けようとする欲望」に全面支配され、
この欲望に都合の悪い事実を、見ても見えず聞いても聞けなくされている状態および力のことです。
単に知らないだけなら知らせてあげれば解決するはずだが、[知らないことを知らない]ので、知らせても「それくらい誰でも知ってるわ」でスルーして話は終りになり、解決の道を自ら閉ざす。