無常は事実。しかし言葉にだまされる
仏法には明日と申すことあるまじく候う。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候うなり。
(蓮如上人 聞書102より)
もちろん仏法だけの話ではない。
人生が成るか成らないかは「無常という事実」をどれだけ事実として痛切に感じられるかに、全てかかっているとおもう。
「有」「無」、「是」「非」、「修行」「安心」とかの言葉で、おれは自分をだましてしまう。この「言葉にだまされるパターン」を何度も何度もくりかえしてきた。極めててごわい。無といってもその無があればまだ有だ。迷いが深くなるだけ。大事なのは言葉ではなく事実だ。
修行=悟り。(修証一如)
だとすれば
言葉の修行=言葉の悟り、
ニセモノの修行=ニセモノの悟り、になるのは当然だ。
このあいだ救急車で運ばれた時、思い知った。おれはいつのまにか無常を忘れていて、修行も安心もたんなる言葉だけだったと。
修行してる体裁をつくろって、これで悟ったも同じだと安心しようとする。そんな悠長な話は病気のひとつもすれば吹っ飛んでしまう。
[090601追記]
志の到らざることは、無常を思はざるに依るなり。
(正法眼蔵随聞記←二祖懐奘による高祖道元の教えのメモ)
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