哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

良き友


「天地達観の位には、聖人と称し仏陀と号するも、もとより人なれば、畢竟、我が講求討論の友にして、師とするものは天地なり。」
(三浦梅園)

そりゃ、そうだ。釈尊だって「私を信じよ」とは言っていない。

「師とするものは天地なり」の気概と見識は、そのまま「自灯明、法灯明」になりえる。

「聖人、仏陀は、我が講求討論の友」という認識も、そうまちがっているわけではない。




仏陀と友」といえば、次の話が思い出される。

あるとき、十大弟子のひとりの阿難(アーナンダ、仏法第3祖)が釈尊
「修行において善き友をもつことは、仏道を半分成就したに等しいと思いますが、いかがでしょうか」
と、かなり大胆な質問をした。

しかし、釈尊の答えは、さらに大胆で驚くべきものだった。

「阿難よ、その考えは正しくない。
善き友をもつことは、仏道の半分ではない。仏道の全部なのである」

と答えられたのだ。

人生において、「良き友をもつこと」は、この上ない重大事なのである。

誰にとっても世界最高の友達は釈尊だ。

釈尊自身が「私を良き友とすることによって、人は生・老・病・死の苦しみから解脱する」と言っている。


ブッダ『雑阿含経』より引用します)
「アーナンダよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱し、病まねばならぬ身にして病より解脱し、死なねばならぬ人間にして死より解脱することを得ているのである。このことによっても、アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである」


ブッダの「感興のことば」ウダーナヴァルガ25・11より引用します)
「どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うということは、そのようなことなのである」

DVDを観る。
「フォロウィン」中佳作
マーサの幸せレシピ」中佳作
「アイアムサム」中佳作
キャットウーマン」中佳作。まあ良くできた娯楽作。

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