いったん否定しないうちは、けっして本当の意味で肯定することができないものがある。
世の中に充満している欲望・意欲とはそういう、いったん否定することによってはじめて真に肯定することができるパラドキシカルな存在だ。
また、単なる否定はどれほど徹底的なものであろうと、否定しているはずの対象にひそかによりかかる甘えた了解である。
それは、いわば、攻め滅すべき敵がいることによって己の存在を感じていられる軍人のようなもので、もし敵方がすっかりいなくなってしまえば彼はたちまち自立できなくなる。
基底まで透察することで、それを突き抜けて、もはやこだわりをすっかりなくしてしまうこと、否定をも否定してしまうことが真の克服だ。