で、ショーペンハウアー哲学の最重要概念「意志の否定」について次のように書いた。
『総じて否定とは、Aを否定してA以外の何かを肯定する結果に落着するものである。
ところが意志の否定の場合だけは、意志以外の何かを肯定するという結果は生じ得ない。
全宇宙は生きんとする意志であり、生きんとする意志以外のなにものも存在しないからだ。
………………
全存在を全否定しようとする意志のエネルギーは、不可能な無に成ろうとして果たせないために行き場を失い、瞬間に反転して直ちに全存在の全肯定となるのではないか。
意志の否定は起こり得ないゆえに、どのような道を通ろうと、結局意志は最終的に肯定されるほかない。
しかし、このような意志が肯定から「無の壁」に激突反転して再肯定に舞戻る、一見徒労に思えるプロセスこそが、最初の自然的な意志の肯定(平均人)と自覚的な意志の肯定(野心家)の持つ宿命的欠点を改善するのではないか。』
これに関して、もう一歩踏み込んで書く。
ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志の消滅ではない。それは決して起こりえない。
「意志の否定」によって実際に現れるのは、
清められた意志
なのである。
仏法の核心をあえて一言でいえば「心を清める」ということになる。
「人間はこの身このままの心で本来清浄だ」というのは、修行の否定で、仏法ではない。つまり自然状態であらかじめ、なんとしても清める必要のある汚れた心が厳然としてある。
この心こそショーペンハウアーのいう「盲目の意志」だ。
生きとし生けるものを支配しているのは心だという仏法の教えは、ショーペンハウアーの意志説を通して、より明確に理解できるとおもう。
ショーペンハウアーの「盲目の意志」…自分が何を欲しているか知らないひたすらな欲。姿かたちのない強力な生きんとする意欲のエネルギー
…生きんとする意欲それ自体に問題があるのではない。
自然状態の生きんとする意欲が、汚れて現れていることだけが問題なのだ。
意志に絡みついた三つの汚れを全面的に廃棄することこそが「意志の否定」の実際の意味なのだ。
ショーペンハウアーは「意志」の特徴をいくつかあげている。
意志は盲目であり、自分が何を欲しているか知らない点→これは〔誼里留?である。
ひたすらな、強力な生きんとする欲である点→これは貪りの汚れであり、その流れが滞るとE椶蠅留?に変わる。
ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志そのものを直接否定・廃棄することではなく(それは原理的に実行不可能である)、自然状態の意志にまとわりついた
それは困難ではあるが、実行可能なのである。
※【貪瞋痴】とん‐じん‐ち
むさぼりと怒りと無知。貪欲と
貪の否定→否貪=知足
瞋の否定→否瞋=安心
痴の否定→否痴=智慧
清められた意志は、知足・安心・智慧の意志となる。
自然状態の汚れた意志を清める可能性を、人間だけが有している。
人間が救われる可能性も、ここに確かにある(ここにしかない)。
誰がやっても、こうすれば確実に汚れた意志が清まる、とう便利なやり方はない。古人が坐禅とか念仏とかいろんなやり方を親切に教えてくれているが、最終的には、自分で自分に合うやり方を見つけるほかないとおもう。
[関連過去記事]
自殺と無我の悟り→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU3MjEyNDM0Lmh0bWw-
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