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比丘が自覚してあるとは何ぞや。
比丘等よ、比丘が
これ比丘等よ、比丘が自覚してあるなり。比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。
(仏教聖典 阿含経 仏伝2、1-13)
不断の自覚。目覚めているかぎり、常に「気づき」を失わないこと。
これが釈尊の教えの中心にある。
正念についても説かれています。
比丘等よ、比丘が正念にあるとは何ぞや。
ここに、比丘等よ、比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。受に就きて…乃至…心に就きて…乃至…法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。
これ比丘等よ、比丘が正念にてあるなり。
(同)
これって、脳を一瞬たりとも遊ばせるなってことだ。
われわれは、あれこれ妄想している時、脳が「働いている」と勘違いしている。
そうではない。妄想している時、脳は遊んでいるのだ。