哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

自覚してあるとは


比丘等(びくら)よ、比丘は正念(しょうねん)にして自覚してあるべし。

比丘が自覚してあるとは何ぞや。
比丘等よ、比丘が()づるにも()るにも自覚を()してあり、前を見るにも後ろを見るにも自覚を為してあり、身を屈するにも伸ばすにも自覚を為してあり、衣鉢(えはつ)を取るにも、自覚を為してあり、食し、飲み、()み、(あぢは)ふにも自覚を為してあり、行き、(とどま)り、(すは)り、眠り、()め、語り、黙してあるにも自覚を為してあり。
これ比丘等よ、比丘が自覚してあるなり。比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。

(仏教聖典 阿含経 仏伝2、1-13)



不断の自覚。目覚めているかぎり、常に「気づき」を失わないこと。
これが釈尊の教えの中心にある。





正念についても説かれています。

比丘等よ、比丘が正念にあるとは何ぞや。
ここに、比丘等よ、比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。受に就きて…乃至…心に就きて…乃至…法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。
これ比丘等よ、比丘が正念にてあるなり。

(同)


これって、脳を一瞬たりとも遊ばせるなってことだ。

われわれは、あれこれ妄想している時、脳が「働いている」と勘違いしている。

そうではない。妄想している時、脳は遊んでいるのだ。