哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

南岳懐讓

馬祖禅師の師は南岳懐讓禅師

説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)


悟りの世界を言語で言い当てることは原理的に不可能、という意味だと思います。


概念で表わせないことを、直に言語化すると、たいてい夢のような茫漠とした表現、あるいは狂人の語る自家撞着的言葉に似たものになる。

日中の禅家語録は、そのような表現の一大集積だ。

表現上のあらゆる工夫を駆使して、なおこの分かりにくさだが、これには必然性があるわけだ。

「抽象的なことがらが人に理解されるのは、結局、世の中の人々の申し合わせにもとづいている」
(ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」第四十八節 西尾幹二訳)

概念化の手段(言葉、文法)は、平均的人々の平均的人々による平均的人々のための道具である。

きわめて例外的な、因果律に支配されない聖者の体験は、前提されていない。

平均的人々は、そのような体験を夢にも知らない。

だから、それを表現する言葉も文法も初めからない。

(8月17日日記から再録http://blogs.yahoo.co.jp/cyqnh957/17556458.html参照)

六祖問南嶽讓曰「什麼物恁麼來?」
讓曰「説似一物即不中」
六祖曰「還可修證否?」
懐譲讓曰「修證即不無、藷ワ染即不得」

「不染汚の修證」という重要な話も、ここですべきなんでしょうが、おれの実力では言葉の遊びを超えられないので止めます。





DVDを観る
「影武者」上佳作

「隠し剣鬼の爪」中佳作。原作短編2(3?)作を合わせたシナリオだと思うが、相乗効果は出ていない。