哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

自分の濃い影法師が見えるのは、背後から明るい光が射しているからだ


今日は『蓮如上人御一代記聞書』より、いくつか。


「心得たと思うは、心得ぬなり。
心得ぬと思うは、こころえたるなり。」(213)
道元禅師の「一方を証する時は、一方は暗し」と通じるものを感じる。
直接には、親鸞の以下の言葉を受けての発言と思う。
『念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々』
歎異抄9)

不安が安心の証である。
絶望が希望の証である。

自分の濃い影法師が見えるのは、背後から明るい光が射しているからだ。




「仏法は、聴聞にきわまることなりと云々」
(193)

「今度、生死の結句をきりて、安楽に生ぜんと思わん人、いかんとして、あしきさまなる事をすべきや」
(219)


「仏法は、しりそうもなきものがしるぞ」
(167)







DVDを観る
「ポセイドン」中佳作。リメイク版。
CGはCGと分かるとちょっと白ける。

ザ・インタープリター」中佳作

「シークレットウィンドウ」中佳作