釈尊入滅後、やがて宗教改革が起こり、在家信者中心の大乗仏教ができた。
教科書的な解説本は、例外なく「菩薩」等を賞揚し、すばらしい改革であり発展であると断定している。
本当に、そうなのか?
在家信者だけを相手にすれば、「存在の意味」に直結する教えや修行は、しだいに忘れられていくほかはない。
かれらの多くは、それを問題としてさえ認知していないからだ。
もし、一切皆苦や不浄観をごまかしなく説いたら、怒って聞かないだろう。
すると、(途中は、はしょる)最終的にどうなるか?
釈尊の教えは、徐々に現世快楽主義的なものにすりかえられ、やがて、日々面白おかしく暮らすための処世術と区別できなくなる日が来る。
そして、大乗仏教の名は残り、釈尊の教えは消滅する。
西洋社会でも同様の現象が起きる。
キリスト教は、ルターなどの改革運動で一般信徒主導のプロテスタントが生まれた。
教科書的知識だと、その当時のカトリックは全否定してよいことになっている。
マルティンルターは、キリスト教に対して非の打ちどころなき正しい改革を成し遂げたと判定されている。
本当に、そうか?
それとは別に、やはり一般信徒主導のイスラム教も生まれた。
いずれも非常に多くの分派があるが、最終的に主流派は現世主義に収斂するだろう。
(まだ今のところ、その反対の現象が多く起きているとしてもだ。)
それは、一般信徒主導の集団である限り、避けられない結果だ。
「晩春」「麦秋」「秋刀魚の味」
(総合して)上佳作。
小津はおれと反対の人生観の持主だと感じた。今日はいい天気ですねえ。そうですねえ。みたいなことを賞賛している。しかし、これだけ明確に堂々といわれると案外悪い気はしない。