哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

うまくいかなくても止めずにそれをヴィパッサナーし続ける

 実行者の大半が、まともに3分すら続かない

ヴィパッサナー実践

について。



 よくいわれることだが、
昔の人が木をこすって火をおこす要領でやる必要がある。

やるなら完全に燃え上がるまで一気にやらないと結果は出ない。

ちょっと煙が出たくらいで休むなら何度やってもあまり意味がない。

「あまり」という限定は、本番で手際よくやるための練習にはたしかになるからだ。

練習すらしたがらない大多数の人々よりはるかに優れている。

とはいえ、練習を本番と取り違えると肝腎の火がけっしておきない。


 人生のためのヴィパッサナーという自然な思いこみを

ヴィパッサナーのための人生

に意志的に転換する必要がある。

人生のためにヴィパッサナーがあるのではなく、
ヴィパッサナーのために人生があるという、
発想の驚くべき逆回転。

これを「ばかげている」とおもったら、
永久に真実は分からない。

ヴィパッサナーのための人生というスタンスが簡単には身に馴染まなくてあたりまえ、
この逆回転こそ、
偉大なブッダの転法輪だから。

ブッダが、一切皆苦から始まる四諦八正道を説いた初転法輪の中に、
この逆回転の構造の原型がある(初めてこの世に現れた)、とおれはおもう。


禅の公案にも
この逆回転の転法輪
は説かれている。


 坐禅して仏になると言う馬祖に

師匠の南嶽は瓦を磨いて鏡にすると言う。

馬祖「瓦を磨いても鏡にならんでしょう」

南嶽「坐禅して仏になるのはどうなんだ」





 

幸福な人生という目的、坐禅はその手段。
このありがちな固定観念は絶対捨てなければならない。



 坐禅を作仏の手段としてはいけない。その未来志向を捨てる。

ヴィパッサナーもおなじこと、未来の目的のための手段ではない。



悪戦苦闘を何時間も続けて疲れたら、
うまくいかなくてもヴィパッサナーは中断せず、
身体を休めることは必要だ。

………………………

地獄の夢を見ても、極楽の夢を見ても、

寝ておるのは寝ておる。

…ぶっちゃかる気遣いはないのじゃ。

(澤木 興道老師)



この世界で何が起きても起きなくても心配はない、ヴィパッサナー実践さえあれば。












うまくいっても、安心して今をヴィパッサナーする。
いかなくても、安心してその今をヴィパッサナーする。

ヴィパッサナーだけに専注する。












(過去記事統合増補編集再録)