A・スマナサーラ長老法話「修行は独りでおこなう~独居修行とは精神の自由~」より引用させていただきます。
儀式儀礼をおこなうことで心が清らかになるのだ、という考えは、仏教は認めないのです。しかし、真理を何も知らない一般人は、苦行をする人々のことを敬うのです。
ですから、苦行によって心が清らかになる、神と一体になる、などの考えは、「教理」というより人間の感情なのです。ですから煩悩なのです。
(引用終) スッタニパータ「犀の角の経」を俗物の先入観で解釈し、自分のひきこもりを正当化しても、それは仏道修行ではないということ。
(同引用)
それでも仏教は、独居を賛嘆することも明らかです。しかしお釈迦様はじめ仏弟子たちは、一人も山に隠れて社会との関係を切断して、他人と口もきかず、顔も合わさず、修行した例はないのです。独居するどころか、お釈迦様は四十五年間、伝道しながら遊行したのです。
(引用終) 独居せずに独居を讃嘆するブッダの真意とはなにか
(同引用)
心を感情から、思考から守るためには、自分ひとりで精進しなくてはいけないのです。心が汚れないようにして下さいと、他人に頼んでも、それはあり得ない話なのです。自分ひとりで、他人に頼らず、精進しなくてはいけないのです。ですから、仏道そのものが、独居修行なのです。決して、肉体的に、物理的に、どこかに隠れることではないのです。
だから「儀式や独居苦行を敬う」あるいは反対に「みんなと一緒に修行すると楽しい」などは、両方とも同じ凡夫の感情で、ただの煩悩。
心を気づきの冥想から離れないようにすること |
こそが、生きるか死ぬかの修行のかなめだということ。