哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

苦痛と退屈の間を往復するだけの一生

ショーペンハウアー「幸福について」2 橋本文夫訳)より引用します。

人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈である…
この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいている…

困苦欠乏が苦痛を生じ、これに反して安全と余裕とが退屈を生ずる。…
文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光の普及を通じて再現されている。流浪の生活は困苦のために、漫遊観光は退屈のために生じた。

(引用終。強調は私です)




 週末のアウトドアレジャーなどにも、そういう奇妙な再現がある。
現代人は退屈しのぎに、原始時代の困苦の生活をちょっとだけ真似て楽しんでいると思う。
苦痛を十分薄めて味わえば快楽になる。
旅行が楽しいのは帰る家があるからだとはよく言われることだ。
その楽しみの本当の姿が苦痛だと気付くほど長くなる前に日常生活に戻り、退屈するとまた出ていく。



同じく(ショーペンハウアー「幸福について」)より引用します。
われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなければ、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、忽ち苦痛なものになる。
(引用終)




 おれは、煩悩が苦痛をもたらすことを学んでからも、煩悩を愛することを止めることができない。
煩悩に動かされないでいると、すぐに苦痛より耐え難い退屈に苛まれるからだ。
苦痛と退屈の間を死ぬまで往復する人生。


 こんな人間は解脱できるわけがないと、ブッダは明言している。

(相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁64項)HP「ターン・プッタタート」ブッダの言葉による四聖諦・完全版『五蘊は知り尽さなければならないもの』より引用します。

 比丘のみなさん。形に夢中になっている人は、その人は苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。受に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。想に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。すべての行に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。識に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、その人は当然苦から解脱できない」と言います。

[引用終]



 動物は苦を楽と錯感覚して、夢中で苦を欲しがる。
賢いつもりの人間もその点さしたる違いはない。苦に夢中の人が苦から解脱できるわけがないと。
全くもってごもっとも。だから世界中いつもどこもおぞましいことになっている。



 形(色)・受・想・行・識を死ぬまで堂々巡りする、人間のこの愚行を根本的に解決するブッダ獅子吼(ししく)が残されています。



色は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。
苦なるは即ち我に非ず、
我に非ざるは亦我所に非ず。
是の如く観ずるを真実の正観と名づく。

是の如く受・想・行・識は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。
苦なるは即ち我に非ず、我に非ざるは亦我所に非ず。
是の如く観ずるを真実の正観と名づく。

聖弟子、是の如く観ずれば色を厭ひ受・想・行・識を厭ふ。
厭うが故にねがはず、楽はざるが故に解脱することを得。
解脱すれば真実の智生じ、我が生すでに尽き、梵行己に立ち、所作己に作し、自ら後有を受けざるを知る。

(雑阿含経1)










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