哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

壊れた傘を路上に捨てる人の真実

 昨日、こんなニュースをやっていた。



おれは約3年前の記事(初出は7年前)で、以下のように書いた。


 台風の時、壊れた傘をごく普通の善男善女が平気で路上に捨てていく。

暴風のさなかに捨てたら飛んでいって人に刺さるかもしれないと誰でも想像できる。こういうのを

未必の故意

という。要するに、


ばれないからセーフ

と判断してるんだと思う。

未必の故意【みひつのこい】
実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態。(三省堂 大辞林)


この前、用事で行った銀行の駐車場で女性の運転する車がバックして、駐車中の車にゴツンとぶつけるのを見てしまった。

運転席の女性は約2秒間様子を見てから、しらっとした顔で走り去った。

この人が多少なりとも自己観察ができれば、こう気づくことができるかもしれない。

今まで私は善人だと思ってたけど、私って実は悪人だったんだ。






ばれないからセーフと思う人は
自分にばれている
ことに無関心な人だ。

自分の心は自分でどうにでもできると思い込む暗愚の人だ。

さあいよいよ死ぬというその時に、それが間違いだったとぼんやり気づくが、もうなにもできない。


この前の福島原発事故の利害関係者のなかにも今まで私は善人だと思ってたけど、私って実は悪人だったんだと気づいた人がいっぱいいると思う。

(以上)


 この記事のタイトルは「普通の善男善女は悪人」とつけた。
反応は不評でほぼ無視。

それは当然なのだ。

なぜなら
本人は、未必の故意だとも、ばれないからセーフだとも、
ほんとにほんとに思ってない
ので、タチの悪い言いがかりをつけられてると感じ不快になるからだ。







これはどういうことかというと、







普通の善男善女は、
骨の髄から嘘つき

ということなのだ。

(この記事も、反応は不評でほぼ無視だろうな……)