葬儀に参列して、故人が安らかに天国に行けますようにと祈るとき、死ぬことは自分に関係ない他人事だと思っています。
けれども、「自分もこのように死ぬのだ」と念ずるようにすると、確実な変化が訪れます。
(以上、引用終。強調は私です)
確実な変化が訪れることはない。
なぜなら
他人事だと思ってるから。
こんな話は聞き飽きたと思ってるから。
念じないから。
死など念じても暗い気持ちになるだけで、損だと思ってるから。
だから、死ぬまで(自分だけは死なない)という根底的暗さから自由になれない。
この不滅の魂という根底的暗さこそが諸悪の根源だ。
太古以来止むことのない殺し合いのダイナモだ。
「宇宙は不滅の大生命で、私はそこから絶え間なく出たり入ったりしている無数の小生命のひとつである。死とは大生命に帰っていくことであり、また戻ってこれるのだから、恐れることはない」
非常に多くの人たちが、これを釈尊の悟りだとおもっている。
あほらしこっちゃ
これこそが迷いなのだ。輪廻なのだ。苦そのものなのだ。
そして、そうとはっきり知ることが、悟りに至る唯一の入口だ。
皆、はなっからバッチリ正反対向いてるから、進めば進むだけ能率良く真実から離れてく破目になる。
死を忘れた人たちが恐ろしい罪を犯す。
死を忘れた人たちこそが、平気で人をいじめ殺し合いをする。
「人類は、自分たちの死を忘れる必要に迫られて文化をつくった」という意味のことを言った哲学者がいた。釈尊の教え以外の全ての宗教も、そういう意味では文化に過ぎない。
天国で永遠の命を得るとか、不滅の大生命が自分だとかは結局
「わたしたちって死んでも生きてるよね!」
と言いあって、死を忘れようとする文化的営みだ。
これで「悟り」なら、インドの大衆は聖者だらけだわ。
もう一回ゆーけど、
あほらしこっちゃ
「いじめと戦争がなくならない原因はひとつ」
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(過去記事統合増補編集再録)