哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

アーナーパーナサティ部屋は宝の山


 アーナーパーナサティの「部屋」は宝の山状態だ。
日本人1億2千万の99%は、この「部屋」の存在すら知らないからだ。



アーナーパーナサティは難しくない。
ただ自分のしている呼吸に気づけばいいだけ。
長く息を吸ったら『長く息を吸った』と知り、長く息を吐いたら『長く息を吐いた』と知る。短く吸ったら『短く吸った』と知り、短く吐いたら『短く吐いた』と知る。これだけだ。

 ところが人間は、この簡単な法が、簡単すぎてできない。何度やってもたちまち挫折する。

なにも極楽浄土だけが易往而無人(行き易くして人無し)ではない。
こんなちょっとした瞑想でさえ、すでにそうなのだ。





何故か。



無常を実感できていないと、深い瞑想までスムーズに進むことが難しい。
たんに言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人は、もっとも浅い瞑想にさえ入ることができない。

無常は、たとえ釈尊の説法を直接聞いたとしても、ただ聞いてるだけで理解することはできない。

自分の実感がどの程度深いかに厳密に正比例して、瞑想の深さが決まる。
じっさい、あなたの心が無常を実感しなければ、幾ら言葉や文字で真剣に学んでも、数分間のサティすらまともに維持できないだろう。


言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人とは、どういう人のことか。

「一切は無常」と教えると「異議なし。事実です。知ってますよ」と答える人は少なくない。

同じ人たちに「人生は無意味。一切は無価値」と教えると「とんでもない。それは最悪のニヒリズムだ。誰が認めるというのか」と答える。

こういう人たちを言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人といいます。


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(過去記事増補編集再録)