世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、
気をつけることである。
(引用終)
これは、釈尊でなければ決して言えない言葉だと思う。
こんなにも深い意味を持たせた「気をつける」という言葉を、他の誰からも聞くことはない。
気をつけることだけが、あらゆる煩悩の流れを防ぎ止める力がある。
釈尊の言う「気をつける」とは、そのような意味のものだ。
この重要な「気をつける」は、正念相続と呼ばれ、不断の自覚と呼ばれ、様々に言いかえられて説かれている。
…
比丘が自覚してあるとは何ぞや。
比丘等よ、比丘が
これ比丘等よ、比丘が自覚してあるなり。比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。
(仏教聖典 阿含経 仏伝2、1-13)
不断の自覚。
目覚めているかぎり、常に「気づき」を失わず気をつけていること。
これが釈尊の教えの中心にある。
正念についても説かれている。
比丘等よ、比丘が正念にあるとは何ぞや。
ここに、比丘等よ、比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。受に就きて…乃至…心に就きて…乃至…法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。
これ比丘等よ、比丘が正念にてあるなり。
(同)
これって、脳を一瞬たりとも遊ばせるなってことだ。
われわれは、あれこれ妄想している時、脳が「働いている」と勘違いしている。
そうではない。妄想している間、気づき、正念、自覚が失われている。脳はやるべき仕事をサボって遊んでいるのだ。
釈尊は、
気づき、正念、自覚に放逸の人は死人に等しい
とはっきり言っている。
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