(バートランド・ラッセル「宗教は文明に有益な貢献をなしたか」 大竹 勝訳)から引用します。
もし、わたしが、その子が将来殺人狂になることを知りながら子を生んだとするなら、わたしは当然彼の罪に対して責任がなければならない。人間がおかすところの罪を前もって知っておられたとするならば、神が人間を創造することを決意されたとき、神はそれらの罪のすべての結果に、明らかに、責任がある。普通のキリスト教徒の議論は、この世の苦痛は、罪のきよめであるから、善いことであるというのである。もちろん、この議論はサディズムの言いわけであるにすぎないし、とにかく、極めて薄弱な議論である。…
この苦痛の多い世界で、万事このうえなくうまく行っていると信じているひとは、彼の倫理的な価値をそこなわずにおることはできない。それは、常に、苦痛とみじめさとに言いわけをしなければならないからである。
(引用終。強調は私です)
全知全能の善なる創造神を持ち出すのは、重心が頭にある人形を立てようとする試みに似ている
とショーペンハウアーは言っている。
(何度立ててもひっくり返ってしまう)
他宗教を批判する余裕があるくらいなら、自分がもっとましな仏教徒になる努力をすべき。しかし、全知全能の創造神は認められないという話を、キリスト教に触れずにするのは難しい…
わけの分からない三位一体説だけでも撤回してもらえんかねと思う。イエスは釈尊のような「人類の偉大な教師としての人間」だったと認めてほしい。でないと、とても信用できない。(それだと復活も再臨も比喩表現と認めることになるから難しいか…)
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(過去記事増補編集再録)