哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ヒルティの言葉が、二種深信の見事な解説に聞こえる

 8月31日の記事マニアックな趣味で、
中国浄土教の大成者善導和尚の言葉とスイスの哲学者ヒルティの言葉が、時間と空間を超えて呼応し合っていて、互いに相手を照らす関係として両者を捉え直すことができ、そうすることで理解が深まる。
と書きました。

その話をもうちょっとします。



ヒルティ幸福論第二部「人生の段階」草間平作・大和邦太郎訳)から引用します。
信仰は神の賜物であって、人はそれを勝手に自分に与えることはできない。…

自分はいつになったら信仰を持つことができようかと、さしあたり絶望しているような多くの人達の方が、ただ外面的に同意しただけで信仰を持っていると思いこんでいる人たちよりも、内的にはいっそう信仰に近づいているのである。…

このような状態にありながら絶望し、自分がどんなに救いに近づいているかを悟りえなかった人々こそ、あらゆる人間のなかで最も憐れむべき人である。
(引用終。強調は私です)


 絶望は救いに近づくための必要条件ともいえる。パウロは『ローマの信徒への手紙』に「律法は初めから誰も守れないようにできていて、人間に罪悪を自覚させるためにある」という意味のことを書いています。自分がどうにもならない極悪人だと知った者だけが、本気で救いを求めるようにもなるからです(さもなければ精神は自殺する)。悪人正機とは、この事を云ったものです。

「自分はいつになったら信仰を持つことができようか」という絶望の極北は、善導大師による
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし
の自覚でしょう。

善導大師のすごいところは、この底なしの絶望が、そのまま深信に他ならないと力強く説いたことです。

これを「機の深信」といいます。

機の深信は、もうひとつの「法の深信」とセットになっている(機法一体)という事実に気づくことが重要です。

思いが、機の深信だけだと自殺するしかなくなってしまうからです。

かの阿弥陀仏四十八願衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず
が「法の深信」です。

思いが、法の深信だけだと軽薄に流れてしまいます。

機がそのまま法であるという、機法一体の自覚が重要なのです。

以前、「ネガティブ自信」の記事で書いた
自分の影法師が濃く見えるのは、背後から自分に強いスポットライト(弥陀の光明)が当たっているからだ
という気づきを、教学的に表現すれば、機法一体の自覚になります。

 おれには、ヒルティの言葉が、この二種深信の見事な解説に聞こえるのです。







ところで、最近は、法の深信方面ばかり説いて、機の深信の重要性をほとんど無視する人が非常に多い気がします。

おれはこのブログで、もっぱら機の深信方面を強調してきましたが、おれなりにバランスをとろうとしているのかもしれません。

機の深信から入って、それがそのままに法の深信だったと発見することが、おれには自然な流れに思える。
法の深信から入って、それがそのままに機の深信だったと発見することは、自然な流れに思えない。それは頭だけの軽薄な理解に留まる危険がある。「ただ外面的に同意しただけで信仰を持っていると思いこんでいる」とは、そういうことを云っていると思います。




宗教に興味のない人は、なにを言ってるのか分かりにくいかも…


[過去記事増補編集再録]