昔、職場で「何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断する人間は最低だ!」と怒ったことがある。
周りの反応は鈍いものだろうと、言う前から予想はついたが、それでも言ってしまうときもあった。
周りの反応は鈍いものだろうと、言う前から予想はついたが、それでも言ってしまうときもあった。
武田邦彦先生のエッセイ「何を言った」より「誰が言った」という社会は、正にわが意を得たりの内容。
ぜひ聴いてください。一人二人でも聴いて理解すれば、(武田先生が言われるように)その分だけ世の中にいやらしさが減って、明るさが増えるとおもうので。
ぜひ聴いてください。一人二人でも聴いて理解すれば、(武田先生が言われるように)その分だけ世の中にいやらしさが減って、明るさが増えるとおもうので。
「何を言った」より「誰が言った」という社会 / 武田 邦彦
以前NHKのドラマ「TAROの塔」を観た時、このことに関して他人を怒る資格がおれにないことに気づいた。最近(再放送だったとおもうが)NHK Eテレ「先人たちの底力 知恵泉 岡本太郎 万博への道」を観て、あらためて思い返した。
もう何十年も前になるが当時おれは、岡本太郎が万博プロデューサーを引き受けたニュースを聞いて、わけもなく軽蔑感をもった。この記憶は今でもはっきりしていて、思い出すたびに苦い味がするので困る。
おれは、自分で調べ考え判断する代わりに、まわりの空気を読み、はしこく適応して済ます獣的人間の一人だったってことだ。
「何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断する」というのもそういうことで、おれも同じことをしていた。
しかも、いまだにこの種の獣性から縁が切れないでいる。
記憶が苦いのはそのせいだ。
もう何十年も前になるが当時おれは、岡本太郎が万博プロデューサーを引き受けたニュースを聞いて、わけもなく軽蔑感をもった。この記憶は今でもはっきりしていて、思い出すたびに苦い味がするので困る。
おれは、自分で調べ考え判断する代わりに、まわりの空気を読み、はしこく適応して済ます獣的人間の一人だったってことだ。
「何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断する」というのもそういうことで、おれも同じことをしていた。
しかも、いまだにこの種の獣性から縁が切れないでいる。
記憶が苦いのはそのせいだ。
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