哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

夏恒例 川で手動瞑想

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 個人的に夏恒例にしている「近くの川で手動瞑想」に今年もほぼ毎日通っている。
しかし昨日は用事があり行けなかった。夕方のニュースで、この川に親子で遊びに来ていた小学生が溺れ死んだと。

 今日は昼頃川に行った。遠くで釣りをしてる父子2人のみ。ライフジャケットを着けて橋の影に入る。水が首までくる深さの場所に立つ。去年と寸分違わぬ美しい光景が眼前に広がっている。
連日の猛暑で水温高く2時間連続で浸かっていても寒くならない。
 今日の新聞によると昨日溺死した子供が沈んでいた川底はこの付近だ。静寂な気持ちになる。水中手動ヴィパッサナー実践、いつもより少し集中したようだ。
両手を下げて腰に付ける。手の感覚を意識する。右手を水平になるまで前方に持ちあげる。感覚を意識し続ける。水中なのでほんの僅かな力で上げることができる。ゆったりした動きに自然になる。水平に真横まで動かす。腰に付くまで下ろす。これで最初の状態に戻った。左手で同じ動作をする。以下繰り返し。

最初、自己流で「生きとし生けるものが、俺、俺のものの執着から救われますように」と心で唱えつづけた。
その時心に浮かんできた想い。
知的障害者19人を虐殺した植松聖の日頃の言動は、ナチスが「劣等分子」20万人を虐殺したT4の戯画だ。それを指摘されても彼は考えを変えず、ついに実行した。千年でも生きる気でいる愚者の行為だ。自分だけは死なないと思っている世間人が決して見ないようにしている心の暗い恥部を、彼は無作法にも白日の下にさらした。
世間の恐ろしさを、漱石が「平生はみんな 善人なんです。 少なくともみんな普通の人間なんです。 それが、いざという間際に、急に 悪人に変るんだ…」と書いた。
世間の愚かさを、ボルヘスが「見知らぬ人を裁き、その人に死刑を宣言し、そののち《汝がその者なり》という啓示を聞く」元ナチス党員に仮託して描いた。

神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる

(コヘレトの言葉7章29節 新共同訳)


祈りはいつか短く「生きとし生けるものが救われますように」となり、最終的に「生きとし生けるものが幸せでありますように」…気づいたら慈悲の瞑想定型になっていた。慈悲の瞑想が練りに練ってこの形になっているのだと納得した。

[160917追記]
 9月に入ると川はたまに釣り人が来るくらいで、ほぼ無人になる。この時期だと日差しが緩くなって橋の下の影じゃなくても快適に過ごせる。水は意外に暖かく気持ちいい。今日は過去最高の透明度で川底に泳ぐ小魚がはっきり見える。1時間水に浸かる。後半、無理しない程度に身体動かし筋肉保持とカロリー消費に励む。ちょっと頼りなかった腰もシャキッとした。車内で休んでると、雨が降りだした。運が良かった。