哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

聴聞を極めると


ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり

蓮如上人御一代記聞書193より)



 道元禅師は
聞思修証(もんししゅしょう)を起すを智慧()

正法眼蔵 八大人覚より)

と教えている。仏道のスタンダードはこっちだが、蓮如上人は、あえて(もん)だけでよいと教えている。
これはどういう意味かと考えると、
仏道修業は本来、(もん)()(しゅ)(しょう)と一本のチェーンのようにつながっているものである。とっかかりになる最初の(もん)きわまると、ことさら意識を起して、次こうしようと思わなくても、(もん)は自ずと自然に()に移り→(しゅ)(しょう)と必ず行われていたという蓮如上人自身の他力的宗教体験を打明けたものだと、おれは思う。





 ところで、信仰は古来 「猿の道」と「猫の道」2種類に別れるが、「猫の道」は、直ぐたんなる宿命論に落ちるので仏道から外れてしまう。
蓮如上人は、(もん)だけはきわめよと「猿の道」を説くことで、信者が仏道に留まることを担保していると思う。




一句一言も、信の上より申せば、人の信用もあり、また、報謝ともなるなり。

(同208より)


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(過去記事増補編集再録)