無知の知…か・ら・の・コギト・エルゴ・スム
デカルトは、熱心に勉学・思索することによって、(偉大な思想家がすべてそうであるように)まず自分がまったく無知であることを学んだ。
世間の人々は何かを知っているのだが、自分は何ひとつ知らないと謙虚になるのではない。
世間の人々も自分も共に何も知らないのだが、その事実をはっきり知っているのは、自分だけだという自覚である。
デカルトは方法的懐疑という手法で、極めて技巧的に自分を「無知の知」に持っていった。
方法的懐疑は、確実なものはなにもないと認めざるを得ないところまで、デカルトによって論理的にかってないほど徹底して続けられた。
この段階で、デカルトは自分がなにも知らないことを確認する(理詰めの無知の知)。
この、いささか頭でっかちな無知の知のレベルは、本家ソクラテスに比べたら、ちょっと軽いのかもしれない。
しかし実は、デカルトの目的は最初からその先に設定されていた。
無知の知はデカルトにとっては、その目的(明晰判明な真理コギト・エルゴ・スム)に達するために通る必要のあった通過点にすぎなかった。無知の知を、目的のための手段に使ったともいえる。
だから少々軽くても問題なしとしたのだと思う。
この見切りがデカルトの凄いとこだと思う。
一般に、デカルトは深みがなく、比較的簡単に理解できる思想家だと見做されているが、おれはそうは思わない。
デカルトは明晰かつ深遠な哲学者だと思う。
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「方法序説と無我の関係」→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU3MTAzMjI0Lmh0bWw-
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