哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

何をもって自己確立と定義できるか


 自己の確立が大事だといわれる。

では、なにをもって、自己を確立したといえるのか。



人間は、自分で望んでする
内発的行為と、
()いられてする(させられる)
外発的行為を、
はっきり区別できるようになって、初めて自己を確立したといえる、とおれは思う。

この基準を厳密に適用すれば、自己を確立するまでに発達した人間は、めったに現れないことになる。

そして、それは残念ながら事実にちゃんと合っている、と思う。



生身の肉体を持ってこの世界にいる以上、内発的行為のみで生きることは難しい。しかも外から強いられてさせられる行為に従うと報酬がもらえる世界システムの中では、多くの人が自欺して、外的強制をいとも簡単に自発行為と信じてしまう。その方が断然楽ちんだからだ。


ある者が、外発的行為を強いられると仕方なしに従うが、そのつど(これは外発的行為だ)とはっきり気づくなら、偏屈な生き方だが、最低限の自己確立はできていると思う。しかし、上の場合と結果は同じなのに楽ちんじゃなくなり、周りからめんどくさい奴とみなされ疎まれる。つまり最低限の自己確立でさえそう簡単ではない。

ちなみに、おれは、不甲斐ないとおもっているが、自己確立できてない。




ところで「自己確立などは西洋かぶれの悪習に過ぎない。大事なのは無私奉公の精神、仏教でいうところの無我である」と主張する人が少なくない。

おれは自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものと思っている。


これについて書いた過去記事も以下に載せておく。




悟りを目指す準備段階として「自己の確立」が必要だ。

「自己の確立」は、本来無い自己を立てるのだから、矛盾ではないかとか、最終的に消える(乃至(ないし)最初から無い)「自己」をわざわざ起こすのは迷うための苦労でないのかとか言う人がいる。

そういう人は、言葉の字面に迷っているに過ぎない。

戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は「自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう」と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。

自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立できない者に、自己をならふも自己をわするるもない。



[関連記事]
「あの悪夢が二度と現実になりませんように」→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU3MzQ4MzQwLmh0bWw-





厳密な意味での自己確立がまず容易ではないが、無我はさらにその先の話になる。
ようやく自己確立を達成したとしても、それで満足すると、野心家の人生で終わってしまう。さらに先に進むためにはヴィパッサナー実践の成就が必要だとおもう。




ちょっと整理しておきたい。
『平均人→野心家(悪人→正義の人)→聖者』が人間の成長パターンだ、というのがおれの持論です。

→過去記事 http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzE1OTU3MTE4Lmh0bWw-
野心家の心理として現れるのが「自己の確立」で、野心家の最終形である「正義の人」の心理として現れるのが「発菩提心」です。
したがって、「自己の確立」は「発菩提心」を含む、より広い概念です。


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(過去記事増補統合編集再録)