…機にうまれつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず、失ともならざる
どんな悪人でも救われる、ということ。
そもそも凡夫の考える善悪など、救いの条件ですらない。まるで関係ないのだ。
他力浄土系の文脈では、救いのイニシアチブを握っているのは弥陀如来である。
「それなら、好き勝手に人を殺してもいいのか」と、トンチンカンなことを訊く人がいる。
その答えがこれ。
「…なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」(歎異抄13より)
凡夫の行為はすべて無意識のうちに「生きんとする盲目意志」が決定し、決定後それに善悪正邪の理屈を、腐敗した奴隷理性が後付けしているに過ぎない。
このおぞましい自分を放ったらかすなら、その罪過は各人が負わねばならない。
人間は、自分を救う手立てのない獣ではないからだ。
八万四千のメソッドはそのためにある。
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(過去記事増補編集再録)