ニーチェはショーペンハウアーを超えたか
現世否定はまちがっている。欲望否定も良くない。というのが昨今の流行だ。
今に始まった事ではない。
ソドムとゴモラの時代から、抑える力が弱まればいつでも飛び出してくる強力なバネ運動のように、繰り返されてきたのだ。
今回の流行は、ニーチェ哲学から勢いがつきはじめたとおもう。
昔『悲劇の誕生』とかニーチェの初期の作品を読んで感動したが、後期の作品は玉石混淆になった。
玉の部分は初期同様すばらしいが、その多くはショーペンハウアーと共通してるとおもう。
たいていの哲学解説書で、ニーチェはショーペンハウアー哲学を克服したことになっている。
「意志の否定」は戯言で、「権力への意志」と「超人」のほうが勝っていると判定している。
「おい、君たち、気は確かか?」と、おれは言いたくなる。
ニーチェは「野心家」の頂点に立った人間だ。
彼の視野は、そこから見渡せる景色に限定されている。
<すべての価値の価値転換>だって?
野心家が己の限界まで発展し、次の「意志の否定」にジャンプする段階で恐れをなし、逃げ帰った。
そのあげくの、あつかましい自己正当化ではないか。
精神錯乱の兆候がほの見える「道徳の系譜」で、この自己の限界に対する自覚が完璧に蒸発し、まるで全知者の如く大言壮語している。
世俗化したキリスト教への批判は正鵠を射たが、勢いあまって「たらいの水といっしょに、赤子を流す」愚を犯した。
結局、ニーチェには、キリスト教の中にいるかけがえのない赤子が見えていない。
そんなニーチェの尻馬に付いて
「われわれの嫌いなものは、すべて良くないものだ。すぐに分からないものは、くだらないものだ」
と大合唱しているのが、この流行の正体ではないか。
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(過去記事増補編集再録)