哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

すでに矢が突き刺さってる、その苦しみに気づくこと

ブッダのことばから引用します。スッタニパータ331~334中村 元訳)
起てよ、座れ。
眠って汝らになんの益があろう。
矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもに、なんの眠りがあろうか。

起てよ、座れ。
平安を得るために、ひたすらに学べ。
汝らが怠惰でありその力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。

神々や人間は、執著にとらわれ、ものを欲しがっている。
この執著を超えよ。
わずかの光陰を空しく過ごすことなかれ。
光陰を空しく過ごした人は地獄に堕ち悲しむからである。

(おこた)りは塵垢(ちりあか)である。
塵垢は怠りに従って生じる。
つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。

(以上、引用終)




 ブッダの云う(おこた)とは?つとめはげむとは、何をつとめはげむべきか分かっていなければならない。


寝る間も惜しんで必死で仕事にはげんでも、サティがなければ怠っている。人はヴィパッサナーにつとめはげまなければならない。 


 しかしまず、自分にすでに矢が突きささっている、その苦しみにはっきり気づくことが絶対必要だ(苦聖諦)。
さもないと、その人にとってはサティとヴィパッサナーの話もすべて的外れになる。


「毒矢の喩え」の哲学青年マールンクヤは、自分にささった矢を抜くなと主張している者ではない。

マールンクヤは、そもそも自分に矢が突きささっているとは思っていなかったのだ。苦聖諦の気づきがなかった人だったのだ。

「毒矢の喩え」は、絶妙の対機説法に導かれて、ついにマールンクヤが自分にささっている矢に気づく、苦聖諦に気づく話なのだ。
「人は死んでも、自分は死なない」という昏深の迷妄から目覚めることができた者の話なのだ。


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(過去記事増補編集再録)