哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

映画『にっぽん昆虫記』

邦画『にっぽん昆虫記』

【ストーリー】より
とめは、母親の松木えんが忠次を婿にもらって2カ月目に生まれた。母の乱れた生活の中で、とめは育っていった。昭和16年、23歳でとめは高羽製紙の女工となったが、日本軍がシンガポールを落した日、とめは実家に呼び返され地主の本田家に足入れさせられ、出征する俊三に無理矢理抱かれた。翌年の秋、とめは信子を生み、本田の家を出て、信子を預け再び高羽製糸に戻った。しかしそこで、係長の松波と肉体関係を結び終戦を迎えた。工場は閉鎖となり実家に帰ったが、再開した高羽製糸に戻り、松波の感化で組合活動を始めた。過激なとめの活動は、会社に睨まれ・・・。 
【キャスト】
左幸子、吉村実子、北林谷栄北村和夫河津清三郎春川ますみ小沢昭一佐々木すみ江長門裕之


 主役も脇も役者の演技はいずれも見事だし、名匠今村昌平監督は作品を完璧に仕上げている。主演の大女優左幸子は同作品と『彼女と彼』で日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を獲得した。(←ウィキペディア)リアリズム映画の傑作であることは間違いない。

しかし、この作品にはなんの哲学もないし主張もない。
強いて言えば「ひたすら生きんとする盲目の意志」の表象がスクリーンに終始映されるだけの映画だ。

作り手に「で、どうする?」と訊かねばならない。

なぜなら人間は自分が死ぬと気づく存在だから、ひとごとの観察表現だけで済まないのは知れている。人は虫並みの生活もできるが、人はついに虫にはなれない。

 凋落世界のリアルな映像をいやという程見せて、あとは観客に「で、どうする?」と訊いてくる丸投げ映画か…
それはちょっと狡いわ。