哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

気づきで止める

ターン・プッタタート アーナーパーナサティの完全技法と自然法より
 もし見えたら見るだけ、聞こえたら聞くだけ、匂いを嗅いだら嗅ぐだけ、肌に触れたら触れるだけ、あるいは舌が味を感じたら味わうだけ。これを「それだけ」と言います。こうできるようになれば、俺はない、あるいはあなたはないと言います。二人称で言えばあなたはない、です。ブッダが弟子に言ったときは、こう言いました。

『あなたの姿が見えたときは見るだけ。あるいは声が聞こえたときは聞くだけ。あるいは臭いがしたときは嗅ぐだけ。あるいは舌で味を感じたときは味わうだけ。あるいは皮膚に触れたときは触れるだけ。あるいは心で感情を感じたり考えたりしたときは、普通に自然に感じ考えるだけ。こうできるようになれば、その時あなたはない。あなたがなければ走り回ることも、どこかに止まることもない。これが苦の終わりである』。
[強調処理はわたしです]引用終





実践には
一呼吸ごとに
「欲しいものはない、なるべきものはない」
という確認がある。この安定した基盤の上でのみ「見るだけ聞くだけ嗅ぐだけ触れるだけ味わうだけ感じ考えるだけ」、一言でいえば「気づきで止める」が可能になる。





 当然ながらこの実践は、夢と希望がある人達、つまり欲しいものがあり、なりたいものがある人達に不相応です。たとえどれだけ気力があっても、そういう人達はまだできません。


 気力のない人は、別の意味で尚更できません。


(過去記事増補再録)