猿→人間→宇宙人→神は進化か?
休みなく生成を繰り返す自然の圧倒的な豊饒性に魅惑され、その大きな謎を謎のまま賛美し受け入れるだけなら、獣だってそうしているではないですか。
しかも、人間のように言葉だけでなく全身で。
獣にとっては、それは当然です。
それ以外の在り様がないのですから。
しかし、人間にとっては、それが存在の意味を覆い隠すベールになっていることに、人間は早く気づくべきです。
※以下、若干正確さを欠いた言い方が混じります。眼目はそこではないので悪しからず。
猿が人間になり、人間が宇宙人になり、やがて神にさえなるが、それは存在の意味ではない。
どうして、そんな目先が変わるだけに過ぎないことが存在の意味であろうか。
だからこそ、仏教では、これを
六道輪廻
と呼び、一刻も早く抜けだすべき迷いの世界だと説いているのです。
かつて見た太陽の記憶が、盲人に手探りをつづけさせている。
人間は、この盲人にたとえるべき特殊な運命を担っているのです。
そのように、人間を駆り立てて止まないのが存在の意味です。
カントは云っています、人間の理性は認識について特殊な運命を担っている、すなわち理性が避けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である、と。
これは存在の意味にこそ当てはまる言葉です。
二通りの道があります。
1・
理性がたぶん答えられない問題なのだから、無視して、悩むのを止める。
2・
わたしたちが避けることのできない運命として担っているからには、何か重大な秘密の意義があるに違いないのだから、あくまで打開の道を模索しつづける。
存在の意味を無視し続けることは、人間にはできないので、1を選ぶと破滅します。
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(過去記事編集再録)