猿のようにあちこちに飛び回る心を、サティとヴィパッサナーで自分に縛り付けておくのは、人生の最重要事項正念相続を守るためだ。
しかし日々トラブルが絶えない四苦八苦の人生で、常に落ち着いた心を保つ『正念相続』など不可能ではないか?
もし人生が、泣かないでいられないほど辛いこと悲しいことが、本当に起こるものなら『正念相続』は誰も(たとえブッダといえども)守れるわけがない。
しかし、この人生は夢、幻のたぐいに他ならない。
これは仮にそう思ってみろというのでない。事実だ。そのおかげで、この第一義を達成することが可能になっている。
悟った後のブッダが、泣いて悲しむ姿を想像できるだろうか?
我々は、悟っていないので、嫌なことが身に降りかかると、泣いたり喚いたりせずにいられない。
正念相続は、毛ひとすじの影だにない。
それでも、ブッダの態度こそ、すべての人間の正しい姿だという事実に変わりはない。
泣いたり喚いたりした後でもいい、そのことをチラッと思い出すだけで、人生はだいぶ違ってくる。
おれはブッダの教えを好んで聞くが、理解しきれない、しかしずっと気にはなっている。そういう「聞法レベル」から長く抜け出せないでいる。
それでも、チラッと思い出すとクールダウンが可能になる。それは、人生の奈落の崖っぷちで正気に戻りUターンする稀有な能力になる。
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(過去記事増補編集再録)