全知全能の神は、昔の人間に必要だったから作られた道具だ。
今は、昔ほど必要とされていない。
遠くない将来、もう一度必要になる時が来る気がする。
そのとき人間は、科学と矛盾しないリニューアルした神をやすやすとでっち上げるに違いない。
しかし、神が最初に発明された時にそうであったように
「これは、人間が生きるために必要だから作った道具だ」
とは決して言わないし、神が必要だと感じているうちはそんなことを夢にも思わないだろう。
のみならず、神を「この目で確かに見た」と言う者さえ、あちこちから競うように出るだろう。
そういう欺瞞性が、人間の変わらぬ特徴なのだ。
遺伝子のプログラムの中に、この度し難い欺瞞性が最初から組み込まれているに違いない。
以下、夏目漱石「文芸の哲学的基礎」から引用。
いろいろな抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘から出た真実であります。…
要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります。…
わが身が危うければどんな無理なことでもしなければなりません。
そんな無法があるものかと力んで居る人は死ぬばかりであります。
だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もの…
[同日追記]
この漱石の文章は、時間や空間という人間の持つ最根本観念について「大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります」が「背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります」と説いたもので、だからまして神などはいうまでもないという趣旨で引用させてもらいました。
夏目漱石「文芸の哲学的基礎」→http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/755_14963.html
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