遺伝子は神か
遺伝子は、人を滅ぼすものでもあると同時に、人を生かしているものである。
その偉大な能動的側面を見て「遺伝子は神だ」という者もいる。
そうなると、おれはバランスをとりたくなり「遺伝子は悪魔だ」という。
遺伝子のプログラムに支配され、殺し殺される修羅場を演じる自動人形(含人類)として、一生を終えるほかない、生きとし生けるものの惨状を
「それぞれが生命を捧げあっている。大自然のなんと見事な秩序だろう」
と人が認め、賛嘆までしてしまうのはなさけない。
この世は、遺伝子の支配下にある。
このことを、人は片時も忘れてはならないとおもう。
自分を生かしている事実に膝を屈して、自分を滅ぼすものの正体を見失うなら、
人は人としての存在価値を自ら放棄したことになる。
もちろん遺伝子の働きを超えようとしても、つねにその裏をかくようにプログラムが何重にも作られているから、難しいが、あきらめたら、その時点で人は終わる。
なぜなら、遺伝子の戦略に抵抗する可能性をもつ者は人だけで、他の生きとし生けるものは、全くその可能性をもっていないからだ。
人がそのことを忘れて
他の生きとし生けるものと自分を区別しなくなったとき、
人はもはや存在価値がなくなり、速やかに滅びるだろう。
西洋思想は、人と人以外の存在を区別するのは当然とみなす。
これは正当なものなのだ。
この点を間違ったものとして、東洋思想の立場から揶揄している論調を最近よく見かけるが、愚かしいことだ。
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(過去記事統合編集再録)